一歩足を踏み入れた途端、静電気みたいに肌がびりびりとざわついた。
上手く取り繕って生きてきたから、その不快感が「敵意」と言う視線だったことに気付くのに、時間がかかった。今や東西十二神将は和睦し、全ての事実は明るみになり、申の猿藤こそが第七次戦争の扇動者だったことも、すでに武術家の間に知れ渡っている。虎金井は反乱に際して先代派と当代派で是非が分かれたが、猿藤の動きを黙殺していた現族長が襲われてからは、半ばなし崩しにうちの側に加わった。
うち、だ。他人事のように思い返してみたところで、現状から逃げられるわけもない。現族長を襲撃したのは俺で、俺は猿藤の次期当主だ。そして、ここ虎金井村の大半の人々にとって、疎んじられるべき存在だ。ましてやここは、その現族長である虎金井天我が入院している病院なのだから。
申が敗れて戌が再び東軍長になるまで、彼は匿われていたらしい。彼の弟から又聞きした話だと、本人の意識はしばらく戻らなかったようなので、あの時周囲にいた人達が瓦礫の中から運び出したのだろう。加害者としては非常に不謹慎だけど、俺はそれを聞いて羨ましく思った。彼を手当てした人々は、一族の中で自分の立場が悪くなるかもしれないリスクを負って庇ったわけだ。それほど慕ってくれる人がいるということに、俺は強い羨望を感じた。
受付で面会希望表に名前を書いたら、案の定看護師の表情も一気に固くなった。これは難しいかもしれない、と思いながら三十分ほど待ちぼうけをくわされる。これくらいの嫌がらせは受けてしかるべきだ。
奥で何やらひそひそと囁きあう声が聞こえ、更に内線電話か何かで揉める様子も見える。しばらくすると、さっきの看護師が苦虫を噛み潰したような顔でやってきて、病室の番号を教えてくれた。
一番上の階でエレベーターを降りる。やたらと自分の靴音が反響して、フロア全体に人気がないことに気付いた。ドアの間隔から個室病棟だと分かったが、それにしても人の生活音がしない。もしかしたら、この階には彼以外入院していないんじゃないだろうか。
その彼の病室に近づくにつれ、足取りが鈍くなって思わず苦笑いした。怒られに行く子供みたいだ。いや、あながち間違ってはないのだけど。
立ち止まって、二度深呼吸した後もう一度して、ノックした。まだ包帯で覆われている手は上手く加減ができず、鈍く痛んで妙にぼけた音になった。
「入れ」
低い声に首の後ろが熱くなって、引き戸の持ち手を掴んだ指が震えた。それを抑えるように強く握り直し、ドアを開ける。階の一番端の病室は、ベッドの横に大きく窓が切られていて、電気もつけていないのに明るかった。
何を言えばいいのだろう。
挨拶をしようとして、俺は何を言えばいいのか解らなくなった。月単位の入院の原因を作った人間が、こんにちはも何もない気がしたし、それ以外の話から始めるともっとちぐはぐになりそうだった。彼がベッドの上で俺を見たきり動かないから、俺の立てる些細な物音だけが部屋の中に響いて、尚更沈黙を強調する。
「…………座ったらどうだ」
「あ、」
ふいと視線を外され、それで俺は不器用に傍らの椅子に腰掛ける。パイプ椅子じゃないそれは背凭れもしっかりしていたけれど、背を預ける気分には到底なれず膝の上で両手を組む。サイドテーブルの上に置かれた電話を見て、彼が俺の来訪に驚かなかったわけを悟った。渋る看護師に面会許可を出したのは、彼自身なんだろう。
視線の角度をフラットにして見た彼は、肌の半分程を包帯とガーゼとテーピングに覆われていた。目立つのは顔の左半分と、右腕だ。左目辺りを中心に巻かれた包帯の間から、引きつった傷の端が覗いている。右の前腕には添え木が二本当てられていて、折れていることが一目で知れた。多分、俺の最初の一撃を受け止めた時だ。
「痛み、ますか」
訊いた瞬間、馬鹿だと思った。俺の負わせた怪我だ、傷の深さを推測できないわけがない。俺同様に古代の力を得た、近年では最強の虎金井一族の当主。犬塚に加担している者としては最大の障害、徹底的に潰せと言われたからその通りにした。半分は命令で、もう半分は図星を突かれてのぼせた頭のせいだ。
「ああ」
短い肯定が、ずしりと鳩尾に落ちた。でも俺に顔を背ける資格はない。黙って、薄い青緑色の目に頷いた。
「………………たか」
「え?」
こんなに静かな室内なのに、声が拾えなくて俺は反射的に聞き返した。
「待たせたか」
すぐには意味が汲めず、数拍置いてやっと面会待ちの時間を尋ねられているのだと気付いた。待たされたが、どう答えればいいのかがやっぱりよく解らない。どうにか返事をしなければと口を開きかけたところで、二の句を次がれた。
「ここの人間はお前を通したがらなかっただろう」
それだけ訊けば遠回しに責められてると受け止められたのに、彼はその後もう一言付け加えた。
――――すまない。
何がすまないと言うのだろう。謝りに来たのは俺なのに。何故この人は俺が言うべきだった言葉を、いともたやすく口にしてしまうのだろう。言うべきで、なのに声にするのもおこがましくてためらった言葉を。
鋭い輪郭の中に填まった蒼は、初めて会った時と同じ凪いだ色で俺を眺めていた。怒りも恨みも、その瞳の中には沈んでいない。俺は負の感情すら、抱くに値しない人間だということなのか。
「…………なんで」
緊張で冷えて湿った指先が、スキニーに爪を立てる。滑る。つかめない。何がだろう。
「なんで、そんなこと言えるんですか」
ここに来ようと決めた時からずっと、謝ることが怖かった。謝罪は許しを得るための手段だ。それは結局、自分の罪悪感を晴らす逃げ道でしかない。許されるために謝るのか、と蔑まれるのが恐ろしかった。それを俺は否定できない。いっそ許さないで欲しい気持ちもあったが、罰を科されることで安堵を感じるなら、楽になろうとしていることに変わりはない。
「謝らないでください。俺には、あなたに謝られる資格なんてない。俺があなたに謝るべきなのに」
追い討ちをかけてくれ。そんな静かな顔をしていないで、俺を詰ってあの時みたいに腑抜けだと一刀両断してくれればいい。耐え切れず俯いた自分が、酷く卑小な存在のように思えた。
時計すらない病室の中に、小さく息をつく音が響いた。
「下らん」
容赦なく切り捨てられた言葉には、やっぱり何の悪意もなかった。
「お前は、真っ向から負かされた相手に謝罪して欲しいのか」
膝頭に落としていた目が、思わず上向いた。心持ち傾けられた首は、呆れているようにも訝しげにも見える。もしかしたら、両方かもしれない。
「でも、あなたは俺と戦わなかった」
あれは最初から最後まで武術を行使することのなかった相手への、一方的な暴行だった。あんなのは、戦いとは呼べない。何故力を使わなかったのか、彼の元を訪れたのはそれを尋ねるためでもあった。さなかに幾ら吠えても、得られることのなかった問いかけ。
ああ、と思い出したように零した彼は、こともなげに信じられないことを言った。
「お前が来る前、犬塚孝士に百鬼封檻を受けた。奴に自覚はないだろうが」
音になっても意味をなせないだろう声の固まりが、一気に喉元までこみあげた。
教えを請うていたはずのこの人の力を、なんで犬塚は封印したんだ。困惑と驚愕に突き動かされて、俺は彼の腕をつかんだ。勝手に椅子から腰が浮き、前のめりになる。
「どうして………!」
その続きを口に出そうとして、俺は自分の舌を無理矢理捻じ伏せた。
俺は、封印された理由を問いただそうとしたわけじゃなかった。「どうして言わなかった」と責めようとしただけだ。解りきっていることだ。彼が自らの力を失ったことを言うはずがない。それは敵に弱みをさらけ出し、同時に犬塚の奥の手を披露してこっちに対処法を検討させる失言だ。
ああ、でも、なら、この人は。周囲の人間を避難させ、ひとり佇んでいたこの人は。
自分の守るべきものを守ろうとしたのだ。
こんな姿に、なってまで。
「………………ああ、もう」
包帯の巻かれた腕から手を離し、俺は両手で顔を覆った。最近ようやく、感情が昂ぶるとこうするのが自分の癖なんだと気付いたばかりだ。落胆や絶望が抑えられない時、周りに表情を見せないための最終手段なのかもしれない。
けれど、今皮膚のすぐ下で渦巻いてる激情がなんなのか、俺には解らなかった。鳩尾が焼けるように熱くて、五感の全てが目の前の彼に集中していく。内側から発火して焦げてしまいそうだ。でも、不思議と不快ではなかった。どうしても黙っていられず、ほとんど無意識に口を開く。
「強すぎるんだ、あなたは」
呟いて、自分の声が耳に入った瞬間、この高揚感の正体が知れた。
俺はこの人の強さに、どうしようもなく焦がれている。
「……人の話を聴いていたのか」
俺の言葉を額面どおりに受け取ったらしい彼は、少し声音を険しくして言った。きっと掌の向こうでは眉間に皺を刻んでいるんだろう。生憎まだ顔は上げられそうにないので、推測の域は出ない。
「聴いてます。…………あの、俺、謝りません、から」
胸の真ん中に向かって、体がぎゅっと小さくなっていくような気がした。小さくなって、そのまま真っ逆さまに墜落する錯覚。もちろん床が物理的に抜けたわけじゃない。墜ちているのは俺だけだ。マジかよ、俺はどこから俺に突っ込めばいいんだ。
「治ったら、手合わせしてくれませんか」
軟着陸すら出来ていないままの心境で仕掛けたアプローチは、我ながら支離滅裂だった。