痺れを切らした、とか、我慢の緒が切れた、とか、そういうことなのだろう。
困ったような笑顔をけだものの本能でねじ伏せるのに、少しもためらいはなかった。
「後藤さん」
事務所に入った時から、背中がびくついているのは見て取れた。毎度のことなので見ないふりをして、緑川は柔らかくその肩に手を置く。
「お疲れ様です」
「あ、うん、緑川もこんな遅くまで」
振り向いて見上げる後藤の視線は、まっすぐ定まる前に振れて揺れる。控え目に捉えても戸惑いがちな、ともすれば怯えたような様子にも、既に馴染んだ。原因なら解っている。
「俺が最後です。後藤さんはまだ?」
立ち上がったままのノートに目をやって、油断させた隙にするりとおとがいに手を滑らせる。いよいよ肩を震わせる後藤に、思わず笑う。苛立ちを覆うために浮かべたそれは、苦笑のように見えただろうか。
「……どうしても駄目ですか」
顎の裏の薄い皮膚を、ゆっくりと撫でる。逃げ道を与えるつもりで言ったわけではなかったが、後藤はおずおずと首を縦に振った。
「…言ってるだろ? 中間種の俺じゃ、お前には釣り合わないって」
眉を下げ、申し訳なさそうに口を開く後藤の頭に垂れた耳の幻覚が見える。生まれついての斑類なら、魂現の制御は呼吸に等しく、そうそう自らの魂を意図せず晒す羽目には陥らない。それを退けて、遺伝子の奥から引きずり出してやりたい欲求が、随分前から消えない。
「そんなに真剣に考えてくれなくてもいいのに」
「遊びなら尚更付き合えないよ」
返答は思いの外早かった。ほんの少し硬くなった声音と、逸らされた視線も意外で、思わずその顔を覗き込む。
「遊びじゃ嫌ですか」
くろぐろと濡れた瞳に、訊くまでもない答えが書いてある。否、顔を合わせずとも解るし、最初から解っていたことだった。首筋に鼻先をうずめて深く息を吸えば、肺に満ちるあまやかな匂いがそのまま真実だ。誘引してもいないのに、彼の身体は緑川を欲している。
それを真実たらしめないのは、ひとえに彼の強情さに尽きた。
「だって、それじゃ、お前にメリットが」
言い募る後藤の唇を、舌ごとさらう。同じ粘膜同士でからめて吸い上げ、唾液を交わして呼吸まで奪う。顎に添えた手から、喉仏の上下する動きが伝わってきた。ようやく抵抗を思い出し、押し退けようとする腕を掴む。力よりも確実に逆らえない方法で、抗う身体を従属させる。
「ん、んぅ、っぁ、あ……ッ」
わななく唇が堪えかねて外れ、過剰に艶を含んだ喘ぎがこぼれた。息を次ぐごと、ぐらぐらと後藤の身体が芯を失ってゆく。斑類の摂理に頭を垂れる肉体は、加減なしで解放された重種のフェロモンにあっけなく屈していた。身体だけなら驚くほど速やかに、緑川は合意をもぎ取る。
「頼む、み、どり、かわ、だめ、だ」
この期に及んでまだ拒もうとする後藤の、ネクタイに指をかける。既に首を支えることすらあやしくなっている彼は、緑川の手に自分のそれをかぶせるのが精一杯で、いっそ促しているようにも見えた。
「そのお願いは、いい加減聞き飽きたんでね」
きしゅ、と高い音を立てて、後藤の首周りがゆるくなる。そのままてのひらを下ろし、胸に張りつくように這わせると、指先にちいさく凝った感触があった。シャツの上から遠慮なく摘み、じわりと捻り上げる。
「っひ、ぁ……っ」
上がった悲鳴はすっかりとろけて、ダイレクトに腰の奥へ響いた。強制的に引き出した雌の匂いに、たがが外れそうなほど高揚している己を自覚し、舌をなめずる。潤んだ虹彩の中に見た自分は、文字通り眼の色を変えていた。
「あなたを俺の雌にしますよ」
腕を握り込まれ、後藤は弱くかぶりを振った。
それが、彼にできた最後の抵抗だった。
男を受け入れるのは初めてだと言うので、穿つ粘膜はなるべく時間をかけて慣らした。
逸る気持ちを抑えてマンションまで連れ込んだ時点で、相当な自制心を消費した緑川は、それでほぼ忍耐力を使い果たした。やりたい盛りの十代でもあるまいにと、自嘲する余裕すら既にない。情欲と征服欲がいちどきに押し寄せているのだ。急くなと言う方が無理だった。
「う、ぁ…ぁあ、ァ、――――っ!」
人工的な粘液でどろどろに濡らした孔に、かたちを覚えさせるようにゆっくりと、下腹が密着するまで突き入れる。猛った肉が包み込まれる感触に、ぞくりと背筋が震えた。
「ほら、入りましたよ」
震える指先をとって、繋がったそこに触れさせると、後藤は淘然とした瞳に諦念の色を刷いた。けれどそれはほんの一瞬で、腰を打ちつけ始めれば、彼は背を引き絞って緑川に縋った。
「っあ、はっ、い、ぁ…っ!」
じりじりと退き、ひと息に突き込む。指で探り当てた勘所を、肉の先端で繰り返し押し撫でて苛める。湿った粘膜の擦れる品のない音が、断続的に生まれて部屋の空気を薄めた。互いのフェロモンはとうに飽和していて、欲情の針は振り切れた状態で壊れている。雌が種を残せないコンディションであることを除けば、交尾そのものの交接だった。
「あ、あっ、あ、っん、ぐ……っ」
弛みっぱなしになっている唇の中の、浮いた舌を咀嚼するように噛みとる。緑川の首を巻いた両肩の裏から腕を滑り込ませ、上体を固定して深いところで抜き差しすると、後藤の踵が背骨の終わりを蹴った。粘りつくようになおも続ければ、粘膜の奥がびくびくと痙攣して、互いの腹の間にしろい濁りが散った。
「…っは、ま、待っ、つら…っあ!」
「でしょうね」
忘我の名残を惜しむように、まだ絞めつけるなかを休みなく貫く。鋭敏になっている前も、吐き出したものを塗りこめるように扱き立てると、まなじりからこめかみへ幾筋もしずくがこぼれた。許容できる上限を越えて与えられる快楽を、身体が必死に逃がそうとしている。それでも、緑川は責めを休めなかった。
羞恥や理性はおろか、ひととしての知性すら剥ぎとって、ただのけだものにしてやりたい。そんな欲求に支配されている自分こそけだものだと、頭の片隅で理解していた。
できれば説き伏せて抱きたかった。けれど、これ以上は待てなかった。
後藤は中間種の犬神人だ。軽種ほどではないにしろ、階級で勝る斑類などいくらでもいるし、現に今の監督だとて猫又の重種である。マーキングもせず他の雄の中に置いておくには、もう心に波が立ちすぎていた。後藤の心底が匂いから透けて見えていただけに、今一歩で触れられない焦燥感が身を灼き続けていたのもある。
「ぃ、っや……またっ、ぅあ、ぁあっ!」
ひゅ、と息を呑む音がする。肩を掴む指の爪が、獣じみて鋭くなっていることに、おそらく本人は気付いていない。皮膚を浅く破る痛みにも構わず、緑川は腰を送る。後藤が関係を拒み続けた本当の理由も、それが重要なものであるか否かも、彼はまだ知らない。どう転ぶにせよ、無理は押し通すと決めていた。
もういいでしょう。
尖りかけた犬歯で耳の下に噛みつき、荒い息すら愛撫に変える。無我夢中でしがみついてくる彼を愛おしいと思うのは、獲物を喰らう捕食者の心理だった。
もういいでしょう、後藤さん。
早く諦めて、
諦めて、俺のものになればいい。
糸が切れたように訪れた眠りから覚めると、窓の外はぼんやりと蒼かった。
背を向けて横たわる後藤と自分の間に間隔があって、彼がもう目覚めていることを確信する。どの面下げてと悩む神経の細さは生憎持ち合わせていないので、緑川は躊躇せず言葉を発した。
「軽蔑しました?」
寝起きの声はかすれていて、思ったよりも深刻に響いた。そんなつもりはかけらもなかったが、相手を揺さぶるには丁度いい。
「したならしたで構いませんけど、俺はあなたを逃がすつもりはありませんから」
念を押すように、自分のつけた鬱血の痕を伸ばした指で辿る。盆の窪よりわずか上につけたものは、襟で隠れないかもしれない。どちらにしろ、今日の後藤は同類が見ればすぐにマーキング済みと知れるので、大した問題ではない。そのことが後藤にとって大問題なだけだ。
「……どうして、ここまでする必要があったんだ」
ようやく得られた返事は、頼りなくざらついていた。やや喉が嗄れているのは、自分のせいだろう。
「こうでもしないと、永遠に俺に抱かれてくれなかったでしょう?」
フェロモンの行使によって従わせるのは、本当に最終手段だった。最初のうちからぼんやりとは考えていたが、悠長に構えている間はまさかすまいと思っていた選択だ。犬の情のこわさと、それに伴う頑固さを完全に甘く見ていた。
跳ねた黒髪をひと撫ですると、後藤は頭まで掛布を引き上げてしまった。ご機嫌の回復はなかなか難しいかもしれない。自業自得だと腹を括って、緑川は手を引いた。
「……だって、抱かれてもお前が俺のものになるわけじゃないじゃないか」
ブランケットの下から聞こえてきた反論を、飲み込むのには数瞬を要した。
何だか今、凄いことを言わなかっただろうか、このひとは。
「…………だから、嫌がってたんですか?」
繁殖能力が低く、希少な重種は、往々にして複数の交際相手を持っていることが多い。個としての色恋より、種の存続を優先するのが斑類の常識だし、ひいては二人の間の常識でもある。仮に緑川に後藤以外の雌がいても、彼にそれを責めることはできない。
それを承知した上で、このひとは今、何と言っただろうか。
「何でもない、忘れてくれ」
もそりと丸まったブランケットをくぐり、自分でも呆れるほど勢いづいて裸の背を抱いた。ぎゃ、と可愛くない呻きが顎の下から洩れる。覆いは取らせてくれなかったが、てのひらで触れた頬と耳ははっきりと熱かった。
「忘れませんよ。それって俺が好きでどうしようもないって意味じゃないですか」
答えは無言、かと思いきや、沈黙を肯定と受け止めかけた頃に、後藤は小さく、本当にちいさく呟いた。
「…………そうだよ」
恋の墜ちる先は奈落なのだと、その日緑川は初めて知った。

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