案の定、冷蔵庫の中身は減っていなかった。
朝食用のパンはキッチンの籠の中に、酒は袋ごとテーブルの上に置いて、クロコダイルは元通りにソファに身を沈めた。
「開けろ」
甘ったるい缶入りのアルコールを向かいに投げ、自分はビールのプルトップを起こす。密封された炭酸の弾ける音がした。
「どしたの、あんま優しいと泣くぜ? 俺」
「やめろ、気色悪ィ」
口実を証明するための買い物に、酒しか気の向く選択肢がなかっただけだ。豊富に分解酵素を持つクロコダイルには晩酌にもならないが、見かけによらず耐性のないドフラミンゴは、清涼飲料のようなデザインの三五〇ミリ缶ひとつで充分に過ぎる。のろのろと封を開け、少しずつ口に含んで嚥下する。半分も開けないうちに、彼は膝を抱え込んで完全にうずくまってしまった。でかい図体をした男にそんな姿勢をとられても、可愛くもなんともない。
「寝んな。気持ち悪ィなら吐くな」
「……いくらなんでも、これぐらいじゃ酔わねェよ……」
きろり、と薄い色の瞳と、早くもほんのり充血した白目が、サングラスの隙間から覗く。怪しげな揺れや不明瞭な発音がないことから、まださほど酔ってはいないのだろう。それでも酒精が鎧われた心情の発露を促しているのか、先程までの能面じみた笑みは剥がれてきていた。
「なー、家賃出すからやっぱここ住んでいい?」
「何が『やっぱ』なんだ叩き出すぞてめェ」
「つーめーたーいー」
「大体てめェ如きの稼ぎで現状折半できると思ってんのか」
「言ってみなきゃわかんねェだろ」
ぽんと二人の間に放り出された金額に、ドフラミンゴは潔く無理、と呟いた。
「住んでる世界が違ェんだよ」
「フフフッ、そこまで言い切られるといっそ爽快だよなァ」
芯を失ったように、首を背凭れに預けながらひそやかに笑う。傍らに置かれたスポーツバッグはジッパーが開いていて、何かを取り出した形跡が見て取れた。点滅する着信ランプが、それだけで相手を知らせる。確かめて、取れなくて、留守録を聞くことすらできずに放っておいている。そんな臆病具合だろうか。電話一本かける暇があれば早くこのでかい荷物をどうにかしに来い、と心の底から思う。
その直後、能天気な音を立ててインターフォンが鳴った。
干した缶をキッチンのダストボックスに投げ入れ、クロコダイルはその横の受話器を取った。
「誰だ」
『……夜分、失礼する』
中身の残った缶を弾いて、戯れに震わせていた指が止まった。
振り向いたクロコダイルに、ドフラミンゴは拒否の動きで首をゆるく巡らせる。頷いた彼は向き直り、短く応じて受話器を置いた。
「今開ける」
背後で身を乗り出す客をそ知らぬふりで、クロコダイルは開錠ボタンを押す。
「クロコダイル!」
途端に切羽詰まった声色になるドフラミンゴの耳に、玄関の開く音が届く。ソファを立とうとした彼の動きは、それで有無を言わさず押し留められた。乱暴に下ろしてローテーブルにぶつけた脛が痛み、現れた人物とともに逃れ難い現実を思い知らされる。
「ドフラミンゴ」
ざわりと耳の裏から粟立つ。縋るべき最後の砦は、入ってきた男と入れ違いにリビングを出て行ってしまった。欺かれたに近い衝撃を受け、しかしそれもすぐに目の前に立つ相手に、頭の片隅へと追いやられる。
「……あー、俺の行くとこって、あんまバリエーションねェんだよな」
一音目がかすれたのを、口数を増やしてごまかす。サングラスを押し上げるふりで俯いて、見上げるためのひと呼吸を稼いだ。
「お前の居場所を明かしたのは、クロコダイルだ」
無機質ですらある穏やかな声が、無慈悲に事実を伝える。今度こそはっきりと裏切られた感覚があって、ドフラミンゴはクロコダイルの消えた廊下に視線を走らせた。だが焦点も定めぬうちに、ゆるく顎をとられて顔を上向かされる。しとりと肌に馴染む革の感触に、背筋が薄く震えるのは完全な条件反射だった。
「どこまで読んだ」
至近距離で見上げすぎて、おとがいから喉の皮が張る。無理に掴み上げられているわけではないのに、ドフラミンゴは束の間自分が自由であることを忘れた。
「……っ、んな、によくは読んでねェよ」
目的語のない問いの意味を理解すると同時に、思考力が戻ってきた。ぱしりと手を払い、首の角度をゆるめる。大きなてのひらはあえてそれ以上追ってはこず、静かに下ろされた。
「そうか」
くまは一歩後ろに引き、開いた幅で視界が広がる。かすかな安堵と喪失感がないまぜになって、ドフラミンゴの裡を満たした。
「バーモントのバーリントンに越す。向こうの友人にあたりを付けて、借りる家はもう手続きを済ませてある。さして賑やかな街でもないが、防寒さえ怠らなければ過ごしやすいそうだ」
事務的な口調で説明され、初めて聞く都市の名前に浅く頷くしかできない。その街が大陸のどこに位置するのか、どうやって辿り着くのか、細かい解説を右から左へ流しながら、ドフラミンゴは目下の疑問を口に上らせた。
「――――いつ出発?」
回答は明瞭だった。
「来年の三月に発つ。それまでに今の家は引けて、出発まではホテル暮らしになる」
こちらでの財産手続きの関係で、色々と雑務があるのだという。生返事をする以外、ドフラミンゴにとれる反応はなかった。全ては彼の手の届かないところで起こっている出来事で、彼が関心を持つことを許された案件はない。
長らく身構えていたにもかかわらず、体の芯から毛細血管まで染み渡るような、つめたい苦さがゆっくりと広がってゆく。依然としてある奇妙な安堵感は、互いの関係が予想通りに破綻しつつあることへの満足だった。考えたどのパターンとも著しく異なるけれども、ある日突然放り出されるよりはよっぽどましだ。きちんと口頭で終止符を打ってくれたことに、感謝すら覚えた。
これでおしまい、だ。
「フフッ、なんだ、そう急いで出てくることもなかったか」
指先が冷えてゆくのに、唇と首の後ろに血が集まり始める。弱いくせにアルコールなど舐めたからか、血流はいつもより奔放で速く巡っていた。気を抜くとぶれそうになる声を叱咤して、あかるく肩をすくめてみせる。それに対するリアクションはなく、クロコダイルがテレビを消していったせいで、二人の男が向かい合わせで突っ立ったリビングは、重苦しい沈黙に支配される。こういう人間だと解っていても、ドフラミンゴは閉塞感に窒息しそうになる。かといって、これ以上の宣告もいらない。もしや、自ら離別を明言せよというくまの意思表示なのか。
意思表示ならば、もうしたではないか。身の回りの必需品は、転がっているバッグの中にあらかた詰めて持ってきた。かさばる大学のテキストや参考資料などは後日また整理して新居に送るつもりだし、それ以外のこまごまとしたものは全て処分してしまうつもりだった。初めから痕跡を残すつもりはなかった。
だからドフラミンゴは、ことさらに自分の買ったものを使い潰しては捨てたがったのだ。
食料品や消耗品はともかく、衣類や家具を見に行くのが、彼は嫌いだった。特に家具は、結果的にくまの持ち物として後々残る。記憶は曖昧でたやすく風化するものと相場が決まっているが、形あるものは壊れない限りいつまでもそこにある。それが彼には厭わしかった。
必要とされないのなら、彼の元から一切を消してしまいたいのだ。
お綺麗な思いやりではない。僅かでも残った足跡から、相手の中で自分が疎んじられるようになるのが恐ろしかった。吐き気がするほどの依存は、翻ってくまに嫌悪されることへの異常な恐怖を生んでいた。
「ドフラミンゴ」
諌められた子供のように、見た目よりも薄い肩が揺れる。なに、と呟いた声は、もう既に普段とはかけ離れたか細さだった。握り込んでも指はあたたまらず、代わりに首から上の血流ばかりがますます盛んになる。顔色に反映されていないことを切に願いながら、ドフラミンゴはカーペットの模様を凝視した。見開き続けても目が乾かないのは、全くもって拙い兆候だった。
「ドフラミンゴ…………その」
口数は少ないが、明晰な言葉選びをする男にしては珍しい躊躇があった。鍵盤上で長いドフラミンゴの指を悠々と導いた手が、俯いた頬に触れる。それだけで喉元から熱いかたまりがせり上がってきた。やめてくれ。やめてくれ。これ以上はいらない。
嘘を明かしてくれただけで、もう充分だ。
「パスポートは、持っているか」
いつの間にか噛みしめていた顎が、ふ、とゆるんだ。
「…………………なん、で」
思わずあちこちががたついている顔を上げて、問いかけを問いかけで返した。己の失態を悟るのと、相手が初めて見る顔をしていると気付くのは、ほぼ同時だった。
「書類さえ揃えば、発券まではそうかからんから、持っていなくとも問題ないが。……ああ、いや、違う、もっと先に言うべきことがあるな」
心情の表れ辛い顔に、かすかに惑いを滲ませて、くまは目深に被っていた帽子を脱いだ。礼を払うようにゆっくりと、胸の上に当てる。
「できるなら、一緒に来てくれないか。……というより、お前と行くのでなければ、意味がない」
一軒家は、独りで住むには広すぎる。
急激過ぎる舵の転換を余儀なくされ、ドフラミンゴは現状を把握できずに立ち尽くした。現実に追いついてはいけない気もした。そう警鐘が鳴った時にはもう、手遅れだった。
「なんで、」
ぶれた音が跳ね上がり、喉が絞まって声が詰まる。代わりに手綱をほどかれたのは、サングラスの下の虹彩だった。レンズで隠せないしずくがはたり、はたりとこぼれ、溢れて顎から床へ落ちる。高そうなカーペットなのにと、まるで場違いなことを考えて必死に自分を笑おうとしたが、結局は徒労に終わった。
「なん、っ」
それしか言葉を知らないように、ドフラミンゴの口からは疑問符しか生まれない。そんなはずはない。こんな終局が実現するわけがない。いつか来る最後の重みに耐え切れず、空想していただけの辛くも苦しくもないただの夢が、目の前で手を伸べているなどと。
信じたくない。
信じて、塞がらない傷を負いたくはない。
それでも。
「俺、あんたといていいの」
四年と七ヶ月、錘を括りつけられて底に沈んでいた言葉は、ようやく音になった。
「――――すまない」
それきり、堰を切ったようにしゃくりあげるドフラミンゴの額を己に凭せ掛け、柔らかな金髪を撫でながら、くまは訥々と詫びた。こわごわと紡がれた一音一音から、そのひと言を口にするのにどれだけの時間がかかったのかが、解ってしまった。
そんなささいな質問を、一体いつから彼は抱えていたのだろう。出会ってから何度封をして、何度飲み込んだのだろう。笑顔で薄く隔てられた幕の向こうの脆さに、今更ながらに気付いて、くまはただすまないと繰り返した。それ以上の謝罪は必ず言い訳を含む。自己弁護ほど醜いものもないと、心から思った。
「おれと居てくれ、そのために決めたことだ」
小さくひきつる背をさすり、しがみつく手に応えるようにくるみこむ。こういうことは日を改めて告げるべきかと思ったが、とにかく嗚咽を止めてやりたくて、くまは数ヶ月後に予定していた台詞を急ぎ取り寄せ後頭に降らせた。
「向こうでなら、お前と結婚できる」
勿論、腕の中の恋人が泣き止もうはずはなかった。
after 15min.
「………落ち着いたか」
「………………おう」
「まだ、顔は見られたくないか」
「………………おう」
「そうか。ところで」
「…………何だよ」
「なぜ、ハノンを持ち出した」
「…………………………」
「…………………………」
「………………………………から」
「なに?」
「…………あんたといちばん、長く見てた楽譜、だから」
「…………………………」
「うわ、何だよ、ちょっ、痛ェ痛ェってばか!」
渡米する前に危うく抱き潰すところだった。(次期新郎談)
after 17min.
「てめェらここ誰ん家だと思ってんだいい加減出てけ!!」
「ぎゃあああああ!」
「叫びてェのはどっちだと思ってんだ死ね! さもなくばベランダから飛び降りろ!」
「実質一択だな」
苛立ちで人が殺せたらいいのに、と五秒に一回は思った。(不本意な立役者談)