彼のことが好きで、どうしようもなく好きで、彼は自分を友達だと言って笑う。
これが最良だと、信じて疑わなかった。
「やめっ、ろ、何してっ」
シャツの裾から差し入れられた手に、ドフラミンゴは身を硬くした。押し掛かられて打ちつけた頭の後ろが痛い。両腕でもって侵入を阻もうとするが、怪力で知られるルフィは掴まれた腕をものともせずに、胸までてのひらを這い上がらせた。探るように撫で回し、緊張に浮き上がった胸の先を摘む。ぎゅう、と痛覚に響くほど強く抓られ、ドフラミンゴは首をすくめた。
「いっ、て、やめろって馬鹿、何してんだ、よっ」
「今朝の」
質問の形の非難には答えず、ルフィは喋りだした。指の力は抜けたが、胸の突端は未だ捻られたままだ。その状態を百年遅れで把握し、ドフラミンゴの心臓が早鐘を打つ。そんなことを気にしている場合ではないというのに。
「今朝の電車でお前の後ろにいたおっさんも、同じことしてたろ」
普段の彼には似つかわしくないほど、感情の乏しい声で言われて、ドフラミンゴの血の気がざっと引いた。指の先から冷えて、末端から力が萎える。どうして。誰も気付いていないと言ったじゃないか。顔も名前も知らない、行きずりの犯罪者の言葉に心中で縋り、彼は声を失う。
「あのおっさん、ずっと服ん中に手ぇ突っ込んで触ってた。こっちにも」
ひゅっと喉が鳴る。ルフィの手が、スラックスの上から前立てを撫でた。そうだ、降りる駅の二駅前から、相手は下にも手を伸ばしてきた。ベルトを弛め、下着を潜り抜けて、凝った胸を執拗に弄びながら、前も扱きだした。成人向けの雑誌やDVDに溢れ返っているような、不愉快で卑猥な台詞で理不尽にドフラミンゴを貶めながら、硬くなった股間を押しつけてきた。
どうしようもない嫌悪感と惨めさが蘇るのに、身体は与えられた快感をも反芻した。
「……勃ってきた」
残酷な事実を、やはり無感動な声で教えられ、ドフラミンゴは心底自分に絶望した。気持ちが悪かった。吐き気すらこみあげた。本当だ。本当なのに、身体は外部刺激にたやすく反応した。蛮行を止めようとした手が、ずるりと床に落ちる。
「あの時も勃ってたよな。いつもあのおっさんとああいうことしてるのか? 顔赤くして下向いてたけど、肩がびくびくしてた。気持ちよかったのか? だからするのか?」
疑問は、口にするうちにいつの間にか肯定されていた。なんで、いつから。登校時間なんて滅多に合わないのに、ましてや乗る電車の時刻なんて。何故、今日の朝に限って、乗り合わせていたのか。いや、自分が一本でも早く、もしくは遅れて電車に乗っていれば良かったのだ。構内の自販機で出始めのポタージュでも買って、階段を降りながら行ってしまった電車を惜しがればよかった。無意味な後悔に苛まれる。全ては後の祭りだ。床の冷たさが解らないほど、ドフラミンゴの指はつめたくなっていた。
「違、う」
上擦った、か細い声で彼は首を振る。紛れもない真実を告げているのに、上手く声が出ない。濃い色のレンズ越しですら、ルフィと目を合わせるのが怖い。
「でも、触られてた」
やめてくれ。動かせない事実を突きつけられて、ドフラミンゴは再びかぶりを振る。これを否定することはできないけれども、自分の意思でないことは知ってほしかった。
「ナミに聞いたら、痴漢されて喜ぶ奴なんていねえって言ってた。だったら、あれは痴漢じゃねえんだろ? なあ、どうしてあんなことしてたんだ、ドフラミンゴ」
最後の言葉には、明らかに詰る色が含まれていた。違う、違う違う違う、あれは同意の上でのことなんかじゃなかった。喜んでなんかいない。見知らぬ男にまさぐられて、強制的に身体の熱を上げられただけだ。口にする前から、ドフラミンゴは己の弁解の薄っぺらさに気付いている。
「違う、違うんだ、俺は、」
どう言い訳をしても、男に身体を弄られて欲情していた現実は覆せなかった。同性に触れられたいと思ったのは、目の前で詰問してくる友人だけだったのに、それが他の男でも構わないのだということを、ドフラミンゴは今朝思い知った。天真爛漫に笑う友人の手に自分の手を重ね合わせ、しろい体液で汚したことは幾度もあった。欲情する男は、彼だけだと思っていた。思っていただけで、実際は誰でもよかったわけだ。随分と滑稽な話ではないか。
「お前、男が好きなのか」
お前が好きなんだ、とは。
言えるはずがなかった。
「やめてくれ、ルフィ、もう」
喉がふるえる。懇願を口にするのがやっとで、ドフラミンゴは両腕で顔を覆う。ルフィの言葉を、彼は振り払えない。おそらく、自分はそういう性癖を持っているのだろう。でなければ、あんな場所でくず折れそうになるほど、感じ入るわけがない。見られていたならば、どう言い逃れようと詭弁だった。
「答えろ、ドフラミンゴ」
まっすぐに三白眼を向けてくる友人は、容赦なくドフラミンゴの腕に手を伸ばす。
やめてくれ、やめてくれやめてくれやめてくれやめてくれやめてくれ。これ以上惨めな姿を晒したくない。彼の知る「ドフラミンゴ」から離れたくない。恋愛なんて甘い夢は初めから見ていない。要領の悪い馬鹿を笑ってノートを貸したり、教室で向かい合わせに昼飯を食べたりする友人でいられればそれでよかったのに。お願いだから、頼むから、俺を。
「……嫌わ、ないっ、で……っ」
剥がされた腕の向こう、サングラスのテンプルに沿うように、するりと透明なしずくが滑った。
最初の一滴があふれてしまえば、後は止めようがなかった。どうしようもなく情けない有り様で、嫌わないでくれと最後まで言うこともできず、息が詰まってしゃくりあげる。呆気にとられたルフィの顔を一瞬とらえて、すぐに滲んだ視界は肩に押しつけた。ずれたグラスよりも素顔を見せることの方が嫌で、そのままドフラミンゴは口を噤む。まるでドミノ倒しだ。一枚傾いただけでぱたぱたと倒れ、あっと言う間に全てが崩れてしまう。
しばしの間、薄暗い玄関先に、押し殺した嗚咽とほそい呼吸だけが響いた。
「……え、何で、泣いてんだ」
呆然と、ルフィが呟いた。掴み上げたその腕もそのままに、ドフラミンゴを覗き込む。薄い唇を噛んでは、鳩尾を震わせる彼は一向に泣きやまない。つかみどころなく笑っていることがほとんどの友人の張りつめた表情に、ルフィの胸の裡にどろりと溜まった澱が溶ける。どす黒い激情が消えてしまうと、途端にどうしていいか解らなくなり、彼は手を離した。
解放されたドフラミンゴは、起き上がることもなく、横向きに背を丸めて顔を隠した。罰を食らった子供のように、きつく身体を縮こまらせている。なおさらとるべき行動を見失い、ルフィは座り込む。これではまるで、自分がドフラミンゴを苛めたようではないか。そんなつもりはなかった。原因不明の苛つきはあったが、彼を泣かせる気などこれっぽっちもなかったのだ。
「なあ、泣くなよ、どうしていいか分かんねえんだ」
ゴーグルで押し上げられた、柔らかい蜂蜜色の髪を撫でる。整髪料を馴染ませた髪は、指を通すと少しべたついた感触が残った。修学旅行で風呂上がりに触った時は、もっと軽くふわふわしていたのに。
「えっと、あのな、別に怒ってるわけじゃねえんだ。あ、なんかすげえ腹は立ったんだけど、それはお前じゃなくてあのおっさんにっつうか、多分」
いまいち不確定なところが多いが、どうにかドフラミンゴを落ち着かせようと、ルフィは言葉を繰る。横隔膜のひきつれを押さえ込めず、床の上に吐き出された呼気は湿って揺れていた。首筋に触れると、酷く熱い。
「なんていうか、ああもうとりあえずお前が嫌いとかそんなんじゃねえから! 泣くなって!」
覆い被さるように腕ごと頭を抱き、ルフィは観念したように喚いた。学生服さえ着ていなければ、酔い潰れた人間が折り重なっているような体勢で、さらに一分経過したところで、ドフラミンゴがぐ、と彼のシャツを握った。
「……あいつの、顔も、名前も、知らねェ」
ひくり、と喉が鳴る。
「それだけは信じてくれ、俺は、触られたくなかった。でも」
満足に継げない息を押し殺して、懸命に吐き出す呟きが、徐々に小さくなった。どこもかしこも、震えている。ルフィのシャツが、彼の呼吸でぬくまってゆく。
「男が好きなのは、本当だ」
怯えているのだと、ルフィでも解った。
「誰でもいいわけじゃねェ、ヤりたいわけでもねェ。普通の奴らが恋愛するみたいに、好きになっちまう相手が男なんだ」
触れたうなじも耳も熱いのに、シャツに引っかかった手はおそろしくつめたかった。繊維越しに感じるその体温に、ルフィは驚く。こいつの手、こんなに冷たかったか。
「頼む、俺は、お前の友達でいてェ」
脈絡に欠けた懇願は、言葉と裏腹に諦念を滲ませて静かにこぼれた。刑の執行を待つ、罪人のようだった。
「……お前馬鹿だな。そんなん、頼んでなるもんじゃねえだろ」
後ろに流して跳ねさせている髪を、わしわしと撫でる。サングラスの隙間から見えた灰翠の瞳は、もう泣きやんでいた。それに安心して、ルフィは続ける。
「そんなちっせえことで友達やめねえよ。悪かったな、泣くほどやなこと訊いちまって」
ドフラミンゴが今日初めて見る笑顔を浮かべて、ルフィは詫びた。なにもかもを取り違えていたが、それはドフラミンゴにとって最も望ましい答えだった。
「訊きたかったのはそれだけなんだ、お前が……いや、何でもねえ」
濁した言葉をごまかすように、起きられるかと尋ねると、長い指がルフィから離れた。自らサングラスを外し、ドフラミンゴはてのひらで涙の跡を拭う。上体を起こした時には、彼はいつも通りの薄笑いを唇に刷いていた。
「フフッ、あーあ、みっともねェとこばっか見せちまった。忘れろよ」
赤らんだまなじりをレンズの下に隠して、本音を冗談じみた口調にくるむ。今日あったことを一切合切、お互いの頭の中から消してしまいたいと、ドフラミンゴは強く思った。
「やってみる。あ、じゃあそろそろおれ帰るな」
馬鹿正直に頷いて、ルフィは立ち上がった。リュックを拾い上げ、右肩にかけてドフラミンゴを立ち上がらせる。怪我人でもあるまいしと手を振ったが、彼は結局差し伸べられる手をとった。ゴーグルを首に落とし、乱れた髪を直すのを見て、ルフィは引き倒してしまったことも謝った。
「んじゃまた明日、学校で」
「おう」
別れの挨拶も、いつもと同じ。
「友達」と言われた時の胸の痛みなど、とうの昔に麻痺している。痛覚を失ったドフラミンゴのこころの表面に、安堵だけが広がっていた。