「ルフィ、それソースだぞ」
「んお?」
秋刀魚に醤油をかけようとしていたルフィは、向かいに座る兄に注意されてやっと、自分が赤ではなく青のキャップを取っていたことに気付いた。あっぶねえ、と叫んで食卓にソースを戻す。こと食事にかけては抜け目のない弟のあからさまな異変に、エースは溜息をついた。
「お前、なんかしでかしたんだろ。話してみろ、兄ちゃんが一緒に謝ってやるから」
ルフィが食欲を差し置いて悩んでいる時には、大抵ろくなことがない。小さな頃から建築現場の足場を崩しただの、校長室にボールをぶち込んでガラスと一緒に校長の頭も割っただの、ごめんなさいではすまない大惨事を起こしては、食卓でしょげ返るのですぐばれるのだ。滅多に帰らない父の代わりに頭を下げてきたせいで、エースは父性豊かな兄になっていた。
しかし、ルフィは口いっぱいに肉じゃがを頬張りながら、首を横に振った。
「ううん、ほへはひはほほははくへ」
「うん、分かんねえから飲み込んでから喋れ」
空の茶碗を二つ持ち、二膳目の白米を一膳目と同じく山盛りにしている間に、ルフィは口の中のものを飲み下した。蛇足だが、この兄弟における山盛りの山とは、富士山ではなく崑崙山を指す。
「おれがしたことじゃなくて。……友達がされたことなんだけど」
受け取った茶碗の米を飲み込むように腹に入れながら、ルフィは話し出した。節約して食べていた生姜焼きの肉が、そろそろなくなりそうだ。
「今日、友達が痴漢されてさ」
食事時にはそぐわぬ単語が出て、思わずエースは味噌汁を噴きかけた。傾けた椀の表面に、さざなみが走る。
「それがなんか、すっげえいやだったんだ」
「……いや、そりゃ嫌だろう、友達が痴漢されてたら。ていうか助けてやれよお前、男だろ」
「あ、そいつも男なんだけどさ」
エースが半分に割ろうとしたじゃがいもが、宙を舞ってルフィの茶碗に乗った。
「……そりゃあ、その友達も災難だったなあ……」
しみじみと頷く以外にできることがなく、エースは飛ばしてしまったじゃがいもの代わりに人参をつまんだ。
「……ほんとだ、なんでひっぺがしてやんなかったんだろう」
一拍遅れで返事を返したルフィは、心底しまったという顔をした。
「なんかその時はめちゃくちゃ腹が立ってさ。あいつ何も悪くねえのに、多分そんなこと分かってたのにあいつの顔見てたらイライラしてきて、ひでえこといっぱい訊いた気がするんだ。忘れろって言われたけど、ちゃんと謝らねえとなあって」
「お前、結局何かしたんじゃねェか」
ルフィが上の空だった原因は、おそらくそこにあるのだろう。エースの箸から飛んだ芋をひとくちでたいらげて、むぐむぐやりながらルフィは唸った。
「……うん。でも、なんか分かんねえんだ。触ってるおっさんをぶっ飛ばしてやりたかったはずなのに、あいつが顔赤くしてんの見たらあいつにもむかついた、気がする」
ルフィの食欲は落ちていない。どうやらこれまでの悩みとは、いささか毛色が違うようだ。
「馬鹿野郎、お前の友達は被害者なんだぞ。本人に怒ってどうすんだよ」
山盛りの大根おろしを乗せ、秋刀魚の最後のひとかけを口に運んで、エースが諫めた。そうなんだよなあ、と盛大に溜息をつき、ルフィは茶碗の内側についた米粒をかつかつ集めてかきこむ。
「あいつが触られたとこ触んなきゃって思ったんだけど、それもわっかんねえし」
かとん、とエースの味噌汁椀が床に落ちた。空でよかった。今日の実は豆腐となめこなのだ。掃除が面倒臭い。
「落ちたぞ、エース」
三杯目を所望しつつ、ルフィが指摘する。椀を拾って、しゃもじで三つ目の山を作り、再び席についてから、エースは顔の前で指を組み合わせた。顔の下半分が隠れ、彼は一気に深刻な影を帯びてみせる。ルフィのクラスメイトのコビーあたりなら、ああ、いますよね有名なアニメにそういうポーズの人、と突っ込んでくれるのだが、生憎弟本人はその作品を見たことがなかった。エースもなかった。ネタではなく、深刻な事態を予見しての体勢である。
「……まさかとは思うが、ルフィ。触らなきゃと思って、本当に触ったりはしてねェよな?」
「触った」
「こらあああああああァァ!」
ごいん、と黒髪の豊かなクッションをものともせず、食卓越しに振り上げたエースの拳がルフィの頭蓋骨を打った。いってえ! と頭頂を押さえる弟に、兄は容赦なく叱咤する。
「お前まで痴漢みたいなことしてどうすんだ! 友達にそんなことされたらなおさら傷つくだろ! 行動する前にちょっとは考えろっていつも言ってるじゃねェか! お前だって自分がそんなことされたら嫌だろ!?」
鬼の形相で思わず立ち上がっていたエースを、涙目のまま窺い、それからルフィはうなだれた。視線は丁度、生姜焼きの皿の端あたりだ。
「…………嫌………かな…………?」
真剣に熟考したらしく、ルフィにしては歯切れの悪い返事が返ってきた。しかし、何となく語尾が上がっている。次の打撃に備えているというより、頭を抱えていると言った方が正しい姿勢に移行しながら、彼は引き続き悩んでいる。食事の手が、完全に止まった。
「嫌……うん、おっさんに触られんのはやだな……それはいやだ……あいつ…………かあ……」
テスト直前でも、ここまで苦悩する姿をエースは見たことがない。立ってしまったからには、ここで座るのもいかがなものか。席に着くタイミングを逸したまま、彼は弟が結論を出すのを待った。
やがて、ぱっと面を上げたルフィは、大発見をしたような顔をしていた。
「おれ、あいつに触られんのいやじゃねえ! っつうか、触られてえ!」
エースは、食卓の上の白米の如く白くなった。漂白剤のコマーシャルに出られそうな勢いである。
「…………ルフィ、もう一度、よく考えてみろ。その子を思い浮かべてみて、お前は胸とか尻をまさぐりたいのか? そしてまさぐられたいのか?」
いや、男の胸を触って楽しいかどうかは未知数なのだが。一縷の望みをかけて言い聞かせた言葉に、ルフィは即答した。
「どっちかっつうと、まさぐりてえかなあ」
暢気に首を傾げられながら、エースは弟が恋愛的に長く険しい道程を歩く運命にあることを宣告された。むしろ、気付かぬ間に岩山をサンダルで登っている最中であることを知った。
深く息を吸って、静かに吸い込む。どうする、ここまで致命的な発言をしてなお、弟は自分の性癖に気付いていない。そういう顔をしている。正直に告げてやるべきか。いやしかし、今まで恋愛のれの字も食えないからと、投げ捨てていたような弟に、いきなりお前その子が好きなんだよと言っても、ぴんとこない顔をされるのが落ちだ。これは自分で悟って実感しなければいけない。弟には弟の人生がある。思春期真っただ中の恋愛の手助けまでするのは、流石に過保護すぎる。
そこまで考えて、エースはようやく椅子に座った。
「……よし分かった。兄ちゃんからひとつ、ヒントをやろう」
厳粛に、若い家長の威厳をもってエースが申し渡す。雰囲気につられて、固くなりかけている米を咀嚼していたルフィも神妙な顔つきになった。
「その子と、他の友達の自分にとっての違いを考えろ。よく思い出して、どんな風に違うのか答えが出るまで、今夜一晩考えてみろ。必ずあるはずだ、顔とか特技とかじゃねェぞ、お前がどう思ってるかだ。それが分かれば、お前がその子に腹を立てた理由も分かるはずだ」
まあ、おそらく嫉妬の暴走なのだが。
釈然としないながらも頷いたルフィに念を押し、エースは茶を淹れに立った。ああ、茶葉が切れた。明日は学校の帰りに買い物に寄らなければ。
両親役の苦労を一身に背負い、彼は遠い異国の地で井戸を掘る父親に思いを馳せた。弟をほぼ任せられてきたことに、不満はない。不満はないが。
少しは育児の難しさを味わえ、この野郎。
呟き:
オフのエードフがあまりにも酷い話だったので、書いてる時に罪滅ぼしをしている気分でした。あと、D兄弟の父はドラゴンです。NGOとかそんな感じの仕事をしています。
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