英語と数学は、習熟度別で少人数クラスが編成される。お上の勝手な方針に、急ごしらえで一般教室を二つに分けて部屋数を稼いだ部屋のひとつで、ルフィは待っていた。
「おう、わりいな来てもらって」
コーヒー牛乳のストローをくわえ、ルフィが片手を上げる。昨日のように無表情ではなかったことに、ドフラミンゴはひとまず安心した。
「いや、いい。それより何だよ」
昼食も持たずに来た彼の表情は、すでに硬い。昨日の今日だ、どうしても懸念が先に出る。ルフィが細かいことに頓着しないたちであることは充分承知しているが、勢いでカムアウトしてしまった事実を、どう受け止められたのかと思うと眠りも浅かった。
「とりあえず、ここ座れよ」
説教を始めるにはあまりにも軽い口調で、ルフィは自分の隣を指さした。言われた通りに座ると、早速話を始めるかと思いきや、彼は教室の扉を閉めに立った。目線の高さにガラスのはめ込んである引き戸でも、立てきってしまうと一応は密室が出来上がる。廊下から流れ込んでくる喧噪が閉め出され、訪れる静寂に空間が閉鎖されたことを感じさせられた。
「ルフィ?」
戻ってきたルフィは椅子に座らず、ドフラミンゴの背後で止まった。身長差はあっても、座っているドフラミンゴと直立している彼では視線の角度が逆転する。
「嫌だったら、ごめんな」
何が、と訊く前に、捻った首がしなやかな腕で捕らえられた。
頬に、跳ね返るこわい黒髪がこすれる。体温の高い肌と、清潔なシャツの匂いが混じって、ドフラミンゴの脳髄が一気に熱くなった。
「……っな、に、してんだ、お前、ここ、学校っ」
過剰な接触に平静を乱され、彼は抱き寄せてくるルフィのシャツを引っ張る。引き剥がそうとする手に逆らうように、抱擁というには乱暴なそれは強さを増した。首筋で深く息を吸う唇を感じ、そこからざわざわと皮膚の裏表がさざめく。
「…………うん、やっぱりだ」
呟きが近い。何がしかの確信を得たようなそれより、ドフラミンゴはこの体勢に気を取られていた。ルフィの匂いと温度と肌に、無条件に血が沸き立つ。しかし瞬きの後、高揚したこころは水を打ったように静まった。
「おれ、お前と友達でいんの嫌だな」
ああ。
やっぱり。
駄目だったか。
「……そっか」
猛烈な後悔に襲われながら、ドフラミンゴはそれだけを返した。昨日と同じように、急激にぬくもりを失ってゆく指が、ルフィのシャツから外れる。音のない教室で、互いの立てる衣擦れの音すら聞こえなくなる。ひねったまま固まった上体が苦しいと、どうでもいいことを考えて思考を散らした。
「気にすんな。でも、できれば昨日のことは、言わねェでくれると助かる」
何故言ってしまったのだろう。自分のセクシャリティと彼を好いていることは、胸の内に納めておくはずだったのに、このくろい目に尋ねられて勝手に口が開いた。沈黙という形でつき続けてきた嘘を、押し通せなくなった。脅迫的なまでにまっすぐな瞳が、怖かった。
「言いづれェこと言わせちまって、悪かったな」
目の奥がつきりと痛む。せっかく氷を当てて引かせた瞼の腫れが、またぶり返す予感がした。情けない、たかだか友人をひとり、失うだけで。
友人だ、ただの。想いを吐露することはなかったのだから、彼と自分は友人でしかない。喉から熱いかたまりがせり上がってくる前に、ドフラミンゴは腕をほどいて立ち上がろうとした。
「…………立てねェよ、ルフィ」
けれど、ルフィの腕は固く巻きついていて、ねじれた上半身をかろうじて直しただけにとどまった。固い座面に押しつけるように力を掛けられ、沈み込む気分に困惑と、ほんの少しの焦りが混じる。
「ドフラミンゴ」
「なに」
首筋に顔をうずめたまま、ルフィは呼びかける。きやすさの欠けた硬い声音に、鳩尾が絞め上げられるように痛んだ。
「ごめん、ドフラミンゴ」
謝罪のかたちを作った吐息で、ドフラミンゴの肌が熱く湿る。黒髪をはたきかけた手を下ろして、彼は笑った。
「謝んな、お前は何も悪ィことしてねェだろ」
「今からする」
不可解な返事とともに、ようやく拘束が解けた。一秒でも速くこの場から離れたくて、力を入れた膝の上にすかさず重石が乗る。がちん、としたたかに前歯をぶつけて、ドフラミンゴは反射的に目を瞑り、開けた。
焦点の合わないほど近くに、短く揃ったくろい睫があった。
「――――ん、ん!」
側頭部をがっしりと掴まれ、ドフラミンゴも迫る胸を両手で押し退けようとするのに叶わない。べろりと唇の輪郭の外まで舐められ、思わず食いしばっていた顎がゆるむと、ぐいと舌が押し入ってくる。生あたたかい他人の感触に再び歯列を噛み合わせれば、ごり、と嫌な歯応えがした。
「……ってえ!」
悲鳴が上がり、弾けるようにルフィが離れる。たった数秒で、ドフラミンゴの肩は上下していた。
「……何、やってんだお前」
ぎしり、と節ばった指がルフィの肩に食い込む。ドフラミンゴも、両のてのひらで顔の横を押さえ込まれたままだ。
「…わりい、ひっつくだけって思ってたのに、ひっついてたら我慢できなかった」
耳の辺りに添えられていた親指が、開いて薄い唇をなぞった。自分の舌に歯を立てた器官を確かめるように、今し方唾液で濡らされたそこを、何度も辿る。執拗に触れてくるルフィに、ドフラミンゴは混乱した。
「我慢って、何を」
「昨日家に帰ってからずっと、なんでお前にひでえことしちまったのか考えてた。なんで触られてるお前にイライラしたのか、お前の体触んなきゃいけねえって思ったのかって」
するり、とルフィの手がドフラミンゴの頭の後ろで組み合わされる。オレンジ色のレンズをすりぬけて、強い視線が薄い色の瞳に突き抜ける。
「そしたら、やだったんだ。お前がおれじゃねえ奴にべたべた触られんのが、他の奴にとられちまうみてえで、すげえ嫌だった」
呆然と耳を傾けることしかできないドフラミンゴを見つめながら、ルフィは一方的に話し続ける。待て、待ってくれ、理解ができない。追いつかない。
「お前に触るのはおれじゃねえとやなんだ。他の奴とひっついたりキスしたりしてほしくねえ。多分、」
多分、ともう一度、ルフィは繰り返した。
「おれは、お前が好きなんだと思う」
自分の胸の奥から、声が引きずり出されたのではないかと思った。
「ごめんな、友達でいてえって言われたのに、一回気付いたら駄目だった。髪の毛とか首とか腹とか、触った感じ思い出したらどくどくするし、本物のお前見てたらなんかもう無理だった。好きなんだ、友達じゃ足んねえ。お前に触れねえ」
少しずつ端から砕くように、ドフラミンゴはルフィの言葉を咀嚼した。意味だけを了解し、しかしそれは現実感を伴わず、夢の中の出来事のように認識される。まさかそんな、都合のいい話があるわけがない。
「……勘、違い…じゃねェの……?」
色恋に興味のなかった相手に、いきなり恋愛感情を、しかも自分に向けられたそれを表明されて、ドフラミンゴは完全に置いてけぼりにされていた。
「そんなんじゃねえ。今日学校で見た奴、片っ端から想像してみたけど、キスしてえのはお前だけだった」
やけにそわそわしていると思ったら、そんなことをしていたのか。絶句するドフラミンゴをよそに、ルフィは表情を陰らせた。
「……誰でもいいわけじゃねえって言ってたのに、悪い」
しゅんとうなだれたルフィに、ドフラミンゴは狼狽する。取り乱して口走った台詞は、彼から離れる可能性を僅かでも減らそうとしたものばかりだった。誰でもいいわけではない、の本当の意味は、彼でなければいらない、だ。その彼が、ルフィが好きだと、自分の顔を見て言っていた。
「あ、」
ドフラミンゴの中で、ようやく意味が繋がった。
内側から火に当てられたように、顔が熱を持ってあからんでゆく。首筋から耳から一緒くたに同じ紅に染まって、いたたまれず彼は俯いた。どう、すればいい。
「ドフラミンゴ?」
ひた、と顔に似合わず荒っぽい線の手が、ドフラミンゴの頬を包む。覗き込まれる、触れられる。肩を掴んでいた手がずるずると落ちて、ルフィのベルトに引っかかった。
「……これ、罰ゲームとか冗談だったら、屋上から飛び降りるからな」
唇をほとんど動かさないようにして、ちいさくこぼれた呟きに、ルフィは心外そのものの顔をした。
「おれが嘘つくの下手なの、知ってんだろ。お前が好きで、お前がいいんだ。おれが言いたいのはそんだけだ」
ぎゅ、とルフィのスラックスの上で、ドフラミンゴの手が拳を作る。さっきまで冷えていた指先が、燃え立つように熱い。息を吸うと、口腔の水分が一斉に干上がった気がした。
「俺、も」
搾り出した、かすかな声。聞き逃すまいと一層顔を近づけてくるルフィに、なんとか目を合わせて、ドフラミンゴは言い直した。
「俺も、お前がいい」
意中の相手に強烈に背中を押され、彼はやっと、一生分の勇気を振り絞った。
通じたての恋に舞い上がる二人が、予鈴で我に返るまでは、あと十分。