丸く切り取られた闇に浮かぶ星を窺い、男は見張りの交代時間が随分すぎてしまったことを再確認した。
昼の勢いとは打って変わって、彼の足取りは重い。海賊になってまだ日の浅い彼は、まだ人を殺したことがなかった。
「………………?」
だがいよいよ武器庫の扉が見える距離まで近づいて、男は怪訝な顔になった。
当番の人間は侵入に備え、扉の外に張っているのが常だと言うのに、通路には人影が見えなかった。前の番を務めた船員が、痺れを切らして立ち去ったとも考えにくい。武器庫は宝物庫と操舵室に次いで、死守すべき部屋だ。特に今のように船が港に停泊している状況では、僅かな間も無人にすることは許されない。肩透かしを食らった緊張感と不審さに、男は今まで触っていたナイフの柄から手を離した。
ぎしぎしと鳴る板張りの床を、心持ち速めた足取りで進む。等間隔で壁に掛けられたランプは、歩くに困らない程度の光量は提供しているものの、外光の届かぬ船倉を鮮明に照らすまではゆかない。だから、彼はあと数歩というところに迫るまで、目的の扉が細く開いていることに気付かなかった。
入口が開錠されているのに気付いた瞬間、男にさっきまでとは別の緊張が走る。武器庫の鍵は番の人間が持ち、交代時に引き継がれることになっている。それが空いているということは、前の番が自ら空けたか、もしくは何らかの理由で奪われたと考えるのが妥当だ。マスターキーを持っている船長が、船長室で休んでいるのは既に確認している。
男の背に、じわりと汗が浮いた。再び腰のホルダーに手を伸ばし、得物がいつでも抜ける状態なのを確認すると、彼は微かな隙間に目と耳を寄せる。爆薬の類も格納している武器庫の壁と扉は、防火のために厚く造られていて、その分防音効果も高い。体ごと扉に密着するような格好になってやっと、男は中の物音を聞き取ることができた。
早足で歩いているような床の軋みの合間に、人の声が混じる。ごく短い問いかけと、それよりも更に短い応答が繰り返されているように聞こえる。だが、耳が慣れてくるにつれ、彼はそれが意味を為した会話でないことに気付いた。同時に、室内にいる二人のうち一人の正体にも。
不安定に乱れ、掠れる声の色調が合致してしまえば、確信は覆せない。思い至った途端、沸き起こった激情は緊迫感を遥かに凌駕した。蝶番が軋むほどの勢いで、扉を開け放つ。
軋む床の上には、組み伏せられ逆さまに男を仰ぐクロコダイルと、彼に覆いかぶさる武器庫番がいた。
薄闇の中でも解る、熱に浮かされた虚ろな光彩が、男の目に焦点を結ぶ。今しがたまで上擦った単音を零していた唇が、無音で動いた。
『 た す け て 』
男を動かしたものは、それだけだった。
不安も恐れも忘れ、ホルダーからナイフを抜いて彼を慰んでいる仲間に襲いかかる。激情が先に立ちすぎて狙いが定まらず、振りかぶった刃は相手の首を浅く切っただけだったが、クロコダイルの上から退かせるには充分だった。驚く間もなく憎々しげに歪んだ、その口が開く前に顎を鷲掴みにして、床に叩き伏せる。指が痺れるほど握りしめたナイフは、今度はあやまたず間抜けに晒された喉笛を貫いた。間欠泉のように噴き上がる血液が、盛大に男を濡らす。致命傷を与えられ、脱力した武器庫番の体に、彼は何度も鋼を突き立てた。腹と言わず胸と言わず、致命傷となりうる箇所を繰り返し刺突する。彼の視界は両目に返り血を浴びたように赤かった。
「もうよせ」
するり、と首にあたたかな感触が巻きついて、男は我に返った。整わぬ息の下、ようやく下敷きにした相手をまともに見やると、既にその目からは生気が失せている。それを確認し、ついで背にゆるく被さる体温がクロコダイルのものであることを理解すると、途端に彼の体から力が抜けた。強烈な虚脱感に見舞われながら、罪の意識を拒絶する自我が言い訳を始める。
―――このひとはもうおれのものになるのにおれのものなのにてをだしたこいつがわるいんだこのひとはおれのものだ!
「あ……あ、あんたなんで、こいつに犯られ、て……」
震える声で問われ、クロコダイルはひどく優しげに答えた。
「お前に会うには一番確実な方法だった。お前が定時に来れば、最後までさせやしなかったのにな」
今のクロコダイルが自分の意志を通す術はない。男は逃げ出した先のことばかりを夢想し、それを忘れていた。彼もそれは重々承知の上、だからこそ単独でいられるよう逃げ回るのではなく、交代する武器庫番に誘いをかけた。幸運にも相手は当初からクロコダイルを虐げていたうちの一人だったが、しつこく求めてくる性質なのを覚えていたので、できれば長く相手をしたくなかった。達する前に殺してくれたおかげで後処理は楽だが。
「そんな……い、いや、すまねぇ、俺が、おれ……」
「いい、それよりも悪魔の実だ」
不安定な思考に心棒を入れるように、クロコダイルは指示を出す。半狂乱で屍にナイフを突き刺す姿を見て、彼は男が人を殺めるのは初めてだと気付いていた。ならば、圧倒的な罪悪感に苛まれる前に事を終えねば面倒だ。
言われてようよう本来の目的を思い出した男は、弾かれたように奥へと進んだ。抱きとめられていた腕は既に退いている。未だ震えを抑えきれない手が、マスケットがかかっている壁面の横を探っている。ややあって、貼りあわされていた壁板の一枚が丸ごと外れた。隣室との間に設けた防火層の中なら、確かに誰の目にもつくことはない。
取り出された悪魔の実は、形と大きさだけなら石榴に似ていたが、渦を巻いた紋様と枯葉色の表皮がただの果実でないことを示していた。食欲はそそらないな、と妙に暢気なことを考える。
一見して硬い皮はやはり手では剥けないようで、男は人の脂に塗れたナイフを繰って割ろうとしていた。細やかさを失った(元々あるのかどうかは知らないが)動きでは刃先が表皮を滑るばかりだ。その様を眺めながら、クロコダイルは男の前に立った。
「貸せ」
苛立つ大人を前にした子供のように、男は小さく肩を震わせて彼を窺った。背筋を伸ばしてきちんと立てば、男のほうがクロコダイルより頭半分小さかった。そこでやっと、彼は自分の心境の変化に気付く。俯かずにこうして立つなど、いつ以来だろうか。
おずおずとナイフと果実を渡してくる男に、クロコダイルはほんの少しだけ口角を上げた。それは存外穏やかに見えたらしく、見上げてくる一対の目が安心したような色を見せる。彼は二つを器用に受け取ると、どうにか肩にひっかかっているシャツの裾で刃を拭い、手首を翻した。ごとん、と固い音を立てて、悪魔の実が落ちる。
「御苦労だったな」
驚くほど呆気なく。
労わりの言葉と同じ速さで、やや鋭さを取り戻したナイフは男の心臓に届いた。
我が身に何が起こったのか、把握できていない男が自分の胸元を見下ろすのと同時、クロコダイルは肋骨の隙間を通した鋼を捻った。盛大に穴の開いた臓器へ外気が入りこみ、皮袋から水が漏れ出すように温かい血液が流れ出す。人を殺す時はなるべく苦しめないように、という信条を元に磨いた腕が鈍っていないことに、彼は多少満足した。今となっては、己の罪悪感を軽減するための詭弁でしかないと理解してはいたが、結果的に一瞬で致命傷を負わせる術を得られたのだから、無駄にはならなかったのだろう。
重篤な薬物依存患者のような呻きをあげ、それが男の最期の声になった。俯いた頭の重さで倒れこみ、クロコダイルが爪先で顔を蹴り転がすともうその目に光は灯っていなかった。幾度も己の身体を嬲ったうちの一人、かつての仲間。思えば、一番酷く裏切られたと思ったのは、この男であったかもしれない。
無性におかしかった。復讐が達成された快美ではなく、解放への喜びとも異なったこの昂ぶり。
以前はあれほど抱いた、殺めた者への懺悔の念が欠片も浮かんでこないことに、クロコダイルは喉を鳴らして笑った。
失くしたものだらけだ。左手を皮切りに、信頼していた右腕、仲間、自由、意思、プライド。そして最早どれを失ったのか解らない、感情。
「――――お前の力で取り戻せるのはいくつだ?」
唇に笑みを刻んだまま、クロコダイルは拾い上げた果実に囁いた。
けれど、失ったほとんどはもう二度と手に入らないと、知っていた。
まだ舌の上に痺れが残っている。
武器庫を出てから、出くわした船員をことごとく乾いた屍にしながら、クロコダイルは厨房に向かっていた。まともな食事とは無縁の生活で、死んだのではないかと思っていた味覚は、どうやら正常に機能していたらしい。曰く言い難い後味の悪さは、一向に口の中から消えなかった。急ぐことはない、目的は変わらないし、悠長に構えて仕損じることでもない。今のクロコダイルにとって、この船の支配から逃れること――この船の中を砂と風と骨で満たすこと――は、慣れた体に男を咥え込むよりずっと容易いのだ。
厨房の扉を開けると、夕食などとうに済んだ時間のコック達はラムを開けていた。強い香りと味は、口直しに丁度だ。
「それ、貰うぜ」
随分伸びた髪をかき上げながら言う。妙な間があって、目の前の男達は陰湿な笑いを交わしあった。侮蔑と揶揄の混ざった、野卑な笑みだ。
「どのご主人様のご注文だ?」
予想できた態度と反応だった。クロコダイルは常に誰かの所有物であり、自分の意思を行動に介在させることは許されない。明確に言葉にした人間はいなかったが、それが船員達の共通認識だった。実際、捕まった男の相手をするだけでなく、使い走りのようなことをさせられたのも一度や二度ではない。座興に下から酒を注がれた時は強烈な酩酊と、その後は嘔吐感に襲われ、半日ほど立てなかった。それでも責められたのはクロコダイルだ。
理不尽な扱いもいい加減肌に馴染んでいるから、今更これくらいで彼が目くじらを立てることはなかった。本当なら会話をする必要もなかったのに、宣言してみたのは確かめたかったからだ。先刻殺した男以外にも、自分の言葉はちゃんと通じているのかどうかを。
そして、その確認は滞りなく完了した。
「俺の主人は俺だ、変態共が」
言ってしまうと、己の唇が面白いほど吊り上がるのが解った。従属を跳ね除けるということは、こんなにも胸のすく心持ちになるものか。神経が高揚すると共に、手に入れたばかりの能力が膚の内側で激しく竜巻く。抑えきれずに手近にあった調理台に触れると、意識する前にそれはざっと崩れた。載っていたものが垂直に落下し、相次いで耳障りな音を立てる。
「!? この野郎…………!!」
目の前で起こった現象と、推測から外れた言動に、コック達は罵声を上げながら立ち上がる。が、戸惑いがそうさせるのだろう、動作は遅い。長い間ろくに走っていない脚で踏み込もうとした反射を打ち消し、クロコダイルは流砂と化す。向かってきた男の一人が彼の姿をすり抜けると同時に、再構成された右手がコック長の喉笛を掴んだ。
「がっ!? ぁ、あ――――――」
一音目は驚愕の悲鳴、それ以降は非力な断末魔を漏らしながら、初老の男は半分ほどの体積になった。それが床に落ちる頃には二人目が干からび、ようやく力関係が逆転したことに気付いた残りの人間は出入り口に殺到した。
「逃がさねぇよ」
ひゅう、と立ち上った砂煙が無防備に晒された背中を包む。纏いつく風は瞬時に速さを増し、砂と共に舞って人体を支える水分を吸い上げた。振り払おうともがきながら徐々に生気を失ってゆく男達を横目に、クロコダイルは傍らにあった酒瓶を直接煽る。久しぶりに嗜むアルコールで舌を洗い、残り少なかったそれを干すと、彼は屍の山の上にそれを放り投げた。大きく割れた破片と人間の残骸をいっしょくたに踏み越え、ぱりんと小気味良い音を立てて砕く。
―――――――――――さあ始めようか。
この船の全ての人間を根絶やしに。己を辱めた者もそうでない者も一切の区別なく平等に、この右手で死を齎そう。厨房の扉をくぐるクロコダイルの周りには、いつの間にかゆるやかに砂を含んだ風が吹いていた。意図してのことではなく、制御できないのだ。圧倒的なカタルシスに総毛立つ精神と、手に入れたばかりの能力が呼応して増長している。船自体を砂にしてしまっては拙いのだが、加減はできるだろうかと彼は考え、けれど自らに箍をかける努力は放棄した。
そろそろ騒ぎが起こり始めている筈だ。厨房も開け放してきたし、通ってきた通路は比較的人の行き来が多い道だった。悲鳴を上げさせる暇も与えず手にかけているから静かなだけで、遠くから聞こえる声や足音は慌しくなってきているのが感じられた。目指す先へ近づけば近づくほど人は増える。船内の異変は全てそこへと運ばれてゆくのだから、当然と言えば当然だったが。まだクロコダイルが五体満足であった頃は彼が、そして今は、彼のかつての右腕が、船の全てを把握していた。
屍になる仲間の向こう側で、迷わず踵を返す薄情者は故意に逃がした。異様な殺戮を目の当たりにしてパニックになった人間は、それをさらに周囲に伝播させる。束の間の延命は、表に出ていない人間を引っ張り出すのに一役買わせる駄賃だ。実際その策は功を奏し、ゆっくりと狂乱状態は広がっていっているようだった。
つきつけられる剣も弾丸も、全てを透かしてクロコダイルは進む。殺める右手は最早自動化されて、黙々と行く手に障害物を作ることをしていた。体内から一滴も残らず水分を失った人体は、頭蓋骨すらたやすく踏み割れるのだと、いっそ感心する。落ち葉を踏んで戯れる幼子のように歩いていたクロコダイルの足は、しかし不意に止まった。
「随分……………華々しくやってくれてるじゃねえか」
白茶けた無精髭の頬を歪め、佇んでいたのは裏切りの首謀者。薄笑いの下に隠せない動揺と焦燥が見て取れる。すぐに熱くなるたちの自分をいつも諌めていた男とは思えない揺らぎが、そこにあった。
「傷心の飼い猫だと思ってたらとんだお転婆だなァ、ええ?」
「……クハッ、飼い猫ほど大切に扱われた覚えなんざねぇがな」
首を傾げ、そう言えば首輪をしたままだったことに気付いたクロコダイルは、小さなバックルに指をかけた。誰に着けられたかも覚えていない犬用の首輪は、するりと外れて落下する。きん、と金具が床を叩いた音を合図に、船長は彼に短銃を向けた。
「そのまま傷ついた顔してりゃあもっと可愛がってやったかもしれねえがな!」
立て続けに響く発砲音、放たれた三発の弾丸はあやまたずクロコダイルの頭部を貫いた。無遠慮に開けられた風穴に眉を寄せ、彼は末端から砂になる。勝ちを悟った笑みが一瞬で崩れ、繕う余裕もなく驚愕に染まった。今さっきまで眼前にいた筈のクロコダイルは、密度の高い砂塊となって船長の全身を絡め取る。その耳元に唇が形成された。
「てめぇには礼を言う。俺の無知を気付かせてくれたんだからな」
人を信じてきたことは、生まれてからずっと犯してきた大きな間違いだった。
後に続いた言葉は、干上がりゆく男の耳に届いていただろうか。
潤いを搾取し尽くした骸を打ち捨てたクロコダイルは、ゆっくりと息を吸い、そうして今の自分が出しうる全ての能力を解放した。
直接この手にかけたい人間は二人だけだった。独りよがりな愛を囁いてきたあの男と、最初の、そしておそらく最後の裏切りを味あわせられたこの亡骸。あとはこの砂嵐に食わせて、一気に悲劇の幕引きだ。神の鉄槌の如く、全ての扉を開き、全ての人間に等しく渇きを与える。砂に溶けた己の感覚が、一人また一人と屠られていく様を感知する。
誰も彼も砂になるがいい。かつての己を知る者は何人も生存を許さない。甘い夢を追っていた男はもうおらず、ここに立っているのは海に厭われる悪魔の力を宿した海賊だけだ。それでいい。
上弦の月の下、クロコダイルが枯らしたのは夥しい命と、己の過去だった。