彼にとって、それはとてもおそろしいことのようだった。
「あの、ね、小瀬君、やっぱり」
散々喉でひっかかった言葉を、ようやっとといった様子で少しずつこぼす、その指先がほんの少し震えている。言われなくても解る。怖い、のだろう。
自分の性癖に、ずっと嘘を吐いてきたひとだ。異性との性交渉は持ったことがあっても、同性とどうにかなるなんて考えたことなど、今までなかったに違いない。色々あって、本当に色々あって、俺が半ば押し切るようなかたちで関係を持って、今日まで来たのだ。まだ、と言い募りたくなる気持ちは、痛いほど解るが、まあしかし。
「大丈夫ですよ、最後まではしませんって」
ネクタイをといてシャツをはだけ、ベルトを外してアンダーシャツをめくりあげたこの状況で、じゃあやめましょうと不安そうな彼に言ってやれるほど、俺に堪え性はなかった。だって合意じゃないか。同意の上で終業後に彼は俺と一緒に飯を食って酒を呑んで、彼なりに弾みをつけて俺のアパートに来た。だから、さっきくちづけた時、彼の唇からはかすかに日本酒の香りがした。それなのに今更と、心の中だけで責める。俺も大概、人間が小さい。
「じゃあ、どこまでなの」
いたたまれなさに視線を落として、彼が問う。うやむやにしておいて、行けるところまで行きたかった下心はあえなく首根っこを掴まれてしまった。
「どこまでって、ええと、そうだな抜き合ったりとか」
「えっ」
えっ、て。
えって何です、佐伯さん。
「いや、その、うん、何でもない」
目元に当てられた彼の手が、何かを押し上げようとして空振る。眼鏡ならさっき、俺が外しましたけど。ルーティンを無意識に反復することで、心を落ち着かせる効果がなんたら、という話を思い出した。推測するまでもなく彼は取り乱していて、けれど相変わらずおっとりとした見た目は崩れていないものだから、俺はこんなところでその動揺を実感する。
「何ですか。気持ち悪いじゃないですか言ってくれないと」
まさか、扱き合いすら想定されていなかった、とかだったらどうしよう。流石に四十路を出た男が、男と性的な関係を持つと覚悟していてそれはないと思うのだが。
「いや、別に」
うろうろと、やり場のない手がシーツを掻く。小さい子供の手すさびのように落ち着かない。
「教えてくださいよ。それともやっぱり、嫌ですか」
するっと言ってしまって、次の瞬間しまったと悲鳴を上げた。もちろん胸中で。妥協案は提示しても、逃げ道を作ってやるつもりはなかったのに。
「嫌じゃないよ。ただね、」
否定は思いの外早かったが、間髪入れず続いた但しに俺はすぐさま身構える。
「……俺が、小瀬君のをこう、握るのかなって思ったら、途端に恥ずかしく、」
台詞の中ほどから、彼のまなじりから耳からが、ふわりと染まっていった。
なんだそれ。なんだそれ。あんた今年で四十二になるおっさんなんじゃないですか。それがなんでそんなことで、そんなふうに恥じ入って言い切ることもできない有り様で、目を合わせることさえできずにいるなんて、なんて、もう。
「……あーもー……やだもう何なんですか……」
思わず両手で顔を覆うと、指の隙間からこちらに伸べられた手が見えた。気遣わしげに俺に触れようとして、ためらって止まってまたうろついている。まったく、思い切りの足りないひとだ。
ぱっと頭を上げ、その手首を掴んで中途半端に脱がせたままの彼に押しかかった。棒読みの悲鳴のような声が立って、色気も何もないそれがまた、妙にくる。
「ちょっと、何、何なの」
「もうね、駄目ですよ。佐伯さんがそんなんだから」
ぶつかった下腹を密着させると、彼は解りやすくひるんだ。
「勃ちましたよ。がっつりしっかり」
あんまり佐伯さんがかわいいこと言うから。ずりずりとしつこく擦りつけながら口に出して駄目押しすると、彼はじわりと首筋まであかくのぼせて顔を背けた。抗うのではなく、逃げたいのだ。
「……俺のせいじゃないんじゃない」
じゃあ誰のせいだって言うんですか全くあんたってひとは!