保身のために緑川を切ったと、彼には思われているだろう。事実その通りだ。鼓膜の裏に染み込んだ声が浮き上がってきて、後藤は閉じていた瞼をひらいた。
――徹底的に嫌いたいんですよ。
子供のように嫌がらせをされたり、罵られたりということは勿論なかった。あれから誰にも悟られないほど自然に、そして確実に、緑川は後藤との接触を避けている。直接言葉を交わしたのは、おそらくあの夜が最後だった。
「……随分聞いてないな」
ガラス越しに響くコーチングや、漏れ聞こえてくる選手のミーティングに、彼の声は確かに混じっている。一プレーヤーとして指摘と意見を述べる力強い、後藤に向けられることのない声。
あの声音が、酷くあまくなることを彼は知っている。もう思い出そうとしても、ざらついたノイズに紛れてしまうけれども、何もかも駄目にされてしまうようなやさしいそれが、後藤は好きだった。
次の休みには片をつけなければ。
寝室の隅の段ボール箱をとらえて、そこまでだった。
重みを増した瞼は、彼の意識ごと暗幕を引いた。
まだ清水から移籍して間もない緑川には、そんな彼の姿が上司というより、新米教師のように見えた。他人事のように、微笑ましさとすこしの痛々しさを抱いた覚えがある。そして、どん底でもがき続ける生徒達のために海を越えて捕まえてきたのが、目の前の達海猛その人だった。
「あー、たまに俺の部屋で倒れてるよ。あいつ二年前からそんなことやってんの」
何の気なく言われた一言に、緑川ははっきりと苛立ち、苛立ったことに狼狽した。うっすらとまとわりつく蒸し暑さのせいだけでなく、背中に汗が浮く。
「……流石に、事務所で寝起きはしてなかったと思いますけど」
付き合いだして、後藤のマンションに初めて上がった時には、随分殺風景な部屋だと思ったものだ。それなりに物はあるのに、生活感が薄かったのは、必要最低限の設備しか動かしていなかったからだろう。満身創痍のていでどうにかシャワーを浴び、ただ眠るだけの日々だったと、彼は困ったように笑っていた。
「あいつ昔っから要領悪ぃからな。人の心配しすぎて、自分のことおろそかにするし」
「俺はいいGMだと思いますよ。フロントであんなに選手と距離の近い人も、なかなかいないんじゃないですか」
ぼんやりと遠くに点る非常灯の青緑を眺めながら、緑川は後藤の弁護に回る。忌憚のない本音だったが、口を開かせたのは先刻の妬気の名残だ。戸惑いを通り越し、いっそおかしくなる。
「へー、後藤って結構愛されてんだな。伝えとくわ」
「やめてくださいよ、恥ずかしい」
浮かべた笑みは苦い。そんな意図はないと解っていても、治りの悪い傷に目を向けさせる達海が憎らしかった。
「見張るのも程々にしてくださいね。達海さんこそ、夜更かししてコンディション崩したら元も子もないですよ」
ささやかに反撃して、緑川はベンチを立った。女性のように肌の調子を気にする同室の人間は、もう眠っているかもしれない。
愛していたとも。
もう過去形でしか、呟けない想いだけれども。

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