善意と言い切るには不純なものが混じっていたけれど、まあ、そんなようなものだ。
その手の店の中では、あまり質のよくない人間が集まる呑み屋で、堀田が知った顔を見つけたのはただの偶然だった。言葉通り本当に「顔しか知らない」相手で、けれどある意味ではおそらく下手な友人より彼のことを知っているに違いない。それは堀田に限らず、ETUのメンバー全員に言えることだった。
薄い背中にぱさついた金髪は、他人がしているのを見ると随分目立つのだと気付く。カウンターだからと安心しているのか、ジーンズの後ろに無防備に財布を挿したまま、うつらと頭を落としかけている姿が、どうにもあぶなっかしくて放っておけなかった。もし財布の中身も貞操も要らなかったのであれば、余計な世話を焼いたに過ぎない。
「こんなとこで寝るなよ」
こめかみを小突くと、そのまま向こう側へ傾いだので慌てて肩を抱き戻した。ほとんど降りた瞼をのろのろと持ち上げ、窺ってくる酔眼は焦点が定まっていない。
「…………堀田、選手」
それでも一応認識はできたようだ。アルコールにささくれた呟きが、思いの外ちいさくて助かった。こんなところだからこそ秘密は守られるが、できれば名前は伏せておきたい。
「羽田、だったっけ。起きろよ、このまま居眠りしたらえらいことになるぞ」
自分が席を立つ前に、近寄ろうと動いた影があるのを堀田は見留めている。この界隈で何がしかの被害を受けても、公に晒される恐怖を鑑みればどこにも訴えられはしないのだ。
「……すげえ、似てる。びっくりした」
ふつり、と瞼が落ちて、羽田はテーブルに潰れた。まだ半分ほど残ったロックグラスに、髪の毛の先が浸りそうになって、堀田は拳ひとつ分ほど遠ざける。どうやら他人の空似認定されているらしい。それはそれで都合がいい。
「寝るなって。ほら、立てるか?」
酔いが回るのを考慮して、揺らさずに背中を叩くと、羽田はかえって一層丸まった。熟睡の体勢に入られるのは、上手くない。どう見ても立つどころか起きることすら困難な様子だが、堀田はなんとか肩ごと、彼の額を腕の囲みから抜き出した。
「ぅ、」
頭が振れた衝撃で、羽田の意識が戻ってくる。振り子の要領で再びカウンターと懇ろになる前に、堀田はその腕を引いた。肩同士がぶつかり、首筋を色の抜けた髪がくすぐる。赤子の手を捻るよう、という慣用句が頭を過って、自分がこの場に居合わせた相手の幸運に、心底驚嘆した。
「すみません、こいつの分も一緒にお願いします」
カードと共に返ってきた領収書には、予想に反して常識的な範囲内の(この辺りの相場で、だが)金額が記されていた。梯子してきたか、酒は強くないのかもしれない。どうにか肩に腕を回させ、ひきずるように店を出た。
「…………あ、」
歩くと言うより、ぎこちなく重心移動を繰り返していた羽田が、不意に声を上げた。口元を覆った彼に堀田はすわ大惨事かと肝を冷やしたが、どうやら後に続いたのはただの欠伸のようだった。
「気持ち悪くなったら言えよ。この辺はコンビニとかもあんまりないから」
かすかに頷いたように見えた羽田の身体が、途端に軽くなった。するりと腕が離れたのに目をやると、ようやく目の開いた彼がこちらを凝視している。
「堀田」
大胆にも呼び捨てられた。意図しての無礼さでなかったのは、暗がりでもその表情で解る。今やっと意識レベルが戻ったのだろう、驚愕のあまり立ち竦んでいる彼に、可笑しみと憐みが半々ずつの笑いを零す。
「さっきも言われたよ。そんなに似てる?」
いっそ清々しいくらいにとぼけてみる。街灯を背にした自分の顔は、羽田からでは窺いづらいはずだ。完全に酔いが覚めていれば通用しないが、彼は酷く困惑しているようだった。
「……いや、なんでも」
易々と騙されてしまった彼が蛇行気味に歩きだしたので、堀田はすいとその腕を引いた。目が覚めたら見慣れない(かもしれない)場所で、見知らぬ(ことにした)男と歩いているのだ。戸惑うのももっともだろう。
けれど堀田にとって、なおも羽田は赤子に等しい。
「よく見たら好みじゃなかったかな」
鮮明に見えていないことは承知の上で尋ねてみる。そもそも、羽田にその気があってこうしているわけではないのだから、その質問自体が罠のようなものだ。抱いた肩がすこし強張ったのをてのひらに感じて、堀田は逃げられる可能性をほんの少し加味した。
「何も言わないならこのまま連れて帰っちゃうけど」
うろうろと視線を彷徨わせる羽田に、笑みを含んだ声で言う。多分何を迷っているのかすら、彼は把握できていない。証拠に大通りに出てタクシーを止めても、羽田は途方に暮れた顔をしていた。麻痺した頭が導を失って、純粋に「どうすればいいか解らない」のだ。このまま帰れと言われたなら、彼は素直に帰るだろう。なので、堀田はかるく背中を押した。
「乗って」
果たして、堀田のマンションの玄関にはスニーカーが一足増えた。
キスは上手くないが、感度は良い方だ。
過ごした酒は円滑なコミュニケーションを阻害しても、感覚には影響を及ぼさなかったようだった。うつぶせにベッドに放り出した羽田の、まるく浮いた頸椎から盆の窪までをぞろりと舐ると、寒さに堪えたように肩が震えた。粟立つ膚にそのまま唇を滑らせながら、堀田は手探りでベルトを抜く。
「ひ、ぅあ、ぁ」
あまく咀嚼される耳殻か、厚い布地の上からまさぐられた鼠蹊部か、もしくはその両方が頼りない喘ぎを呼ぶ。随分普段とのギャップがある、と感心する一方、素直に興奮する。
「いつも後ろ使う人?」
ずるりとボトムを脱がせながら、参考までに堀田が訊く。よしんば経験がなかったとしても、今後の手管に大きな変更はない。
「うし、ろ?」
「ああ、ここ」
ひっくり返した片脚を立てさせて、ローションを乗せた指の腹で孔の表を押し撫でる。ぶれた膝に怯えと期待を感じ取って、少なくとも前戯で済ませる主義でないことは了解した。
「心配しなくてもちゃんと慣らすから」
反射で絞めつけてくる粘膜に逆らわないよう、呼吸に合わせてまずは一本うずめる。身体が弛緩しているとは言え、過信して痛い目を見るのは相手だけではない。
「っう、わ、やだ、それ、っ」
余剰の潤いを塗りこめるように、門渡りを親指でじりじりと往復すると、羽田は首を跳ね上げた。焦り気味に伸ばされた腕をやわらかく払い、堀田は逃げを打つ腰を捕らえる。
「やだ、やだって、ぁ、気持ちわ、り……っ」
明瞭に拒む割には、弱く兆していた肉はあからさまに張りつめていた。天邪鬼を黙らせるのにそこにも指をからめようとして、思い立ち開けたままのチューブから更に粘液を絞り出す。
「いっ、ぁあ、あっ、ん――――!」
どろどろとぬるいてのひらで殊更手酷く擦り上げ、音を立てる。不自然にくぐもった声は、羽田が自分のシャツを噛みしめたからだ。薄い腹筋の引きつるさまが妙に艶めかしく、堀田は弱いところばかり見つけては苛めた。
「痛くない? ていうか、聞こえてる?」
挿し入れたそこに直接潤いを注ぎ足しながら、指を増やして様子を窺う。感触がやわらいできたので、なか以外に構うのはひとまずやめた。腿の内側や腰骨なんかをうっかりなぞってしまうのは、なんと言うかまあ癖だ。
奥から手前へ少しずつ角度を変え、ゆるく曲げた指で抜き差しを繰り返す。勘所を訊くのは簡単だが、それでは面白味に欠ける。
「――――っひ、ぐ」
閉じようとする膝を、身体で割り込んで阻む。息を呑む音が、確かに聞こえた。
「ここ、かな」
ぐう、と揃えた指で奥のひとところを圧迫する。かぶりを振って再び堀田を押し止めようと縋る手は、彼の腕を掴む前にシーツを掻いた。
「苦しいだろ。いいよ、口塞がなくても」
重たく唾液にまみれたシャツを外すと、籠って濡れた息がこぼれた。当然アルコールの匂いがするのはご愛嬌だ。
「っおれ、声、でかい、って」
「うん、いいよ。一応ここ防音だし」
断じて邪な意図があったわけではない。寮生活の壁の薄さに辟易して、物件を決めるにあたっては防音を重視したマンションを希望しただけだ。ちらりともこういうことを考えなかったかと言えば、黙秘権を行使するが。
「やっ、だ、こえっ、あっ、ぁ、」
なかを押し上げる度に膝の側面で蹴ってくる脚が、そろそろ痛い。我慢もいい加減限界で、指が散々伝えてくる熟れた粘膜に押し入りたい。くるりと薄いラテックスを下ろしながら、堀田は羽田の意識の朦朧具合を惜しんだ。基本的に、オーラルセックスには重きを置きたい派だ。
「聞こえません」
切っ先をあてがえば、後は緩慢に腰を打ち込んでゆくだけだった。
「ぁ――――――ああ、あ、ぁ、あぁ……っ」
一旦顎が弛むと歯止めが利かないのか、上擦った声は沈み込む動きに連動してあふれた。注意して耳を傾ければ、なるほどスタジアムで聞くあのざらついた音が一番底にある。それが跳ねてちぎれて、ところどころ裏返って、もう目も当てられないありさまだ。なかなかにかわいらしい、と思う。
「あー、きっつい、な……」
両手で腰を抱え直して、ながい息をつく。元々閉じている状態が正常な器官だ。丁寧に慣らしても、何の苦も無くというわけにはいかない。繋がったそこをぐるりと辿り、とりあえず裂けてはいないことを確認する。相変わらずびくついている下腹が、なんとなくいじらしい。
体勢を整えようと心持ち腰を引くと、膝に爪が立った。
「っうご、か……っで、ま、だっ」
見上げてくる虹彩には涙の膜が張っていた。あからんで熱をはらんだまなじりを撫でているうち、するすると膨らんだしずくがこめかみへと伝う。
「へえ、こうやって見ると色っぽい目してるんだな」
目つきはお世辞にもいいとは言えないが、瞳のかたちはことのほか整った切れ長だ。悪目立ちする格好さえしなければ、柄が悪くは見えないだろうに。あるいは、そのためのあのサングラスなのか。
「あ、こら隠すなよ」
顔を覆い隠そうとした両腕を、握りこんでゆるく引く。と同時に、浅く揺さぶる。
「ふ、ぁっ!」
抽送と呼べるほどの幅もない穏やかな振動に、しかし羽田は爪先をぎゅうと巻き込んだ。
「ひぁっ、ぁあ……っ、あ、やだ、やだ……!」
「はいはい、嘘つかない」
だらだらと起ち上がりきった肉の先端から、粘度の低い体液がしたたっているのは、勘所に突き当てたまま堀田が羽田を揺らしているからだ。なまじ激しい突き上げよりも強烈な感覚に、肉の削げたような膝ががくがくと震える。
「う、っぅ、ひ、っだ、だめ、も、……ッ」
搾り取るつよい収縮は、おそらく不随意だった。
庇う術のない弱みを責めたてられ、ほとんど追い立てられて羽田は吐精した。陸に揚がった魚のように幾度か背を弾ませ、それから糸が切れたように脱力する。
「……っ、は、やばかった……」
危うく持って行かれそうになった堀田は、精神力の何割かを消費して持ち堪えた。楽しむつもりの小手調べで暴発する失態はどうにか免れたけれども、遊ぶ余裕は大幅に削られてしまった。何しろ、こんなにあっさり気をやられてしまうとは思わなかったのだ。
「喜ぶ、べきなんだろう、けど」
今度こそ、大きく退いてぎりぎりまで抜き出すと、堀田はひといきに深くまで貫いた。
「っあぁ……っ!」
「ちょっと、もうそんな余裕もない、な」
長いストロークで蕩けた粘膜を穿ちながら、口角を歪める。膝の裏を掬い上げて押しかかるように一層深く繋がり、堀田はぬかるんで粘る音でも羽田を犯す。
薄膜越しに管道を灼かれた時、彼は既に意識の半ばを手放していた。
目が覚める前に、側頭部を思い切り殴られた。
それも鐘衝きに使う、名前はよく解らないがあの大人が二、三人がかりで引っ張るような奴で殴られた、と思ったが、身体も起こせないままよくよく考えてみれば、その衝撃はただの壮絶な二日酔いだった。自覚すると共に吐き気と倦怠感が大挙してきて、羽田はベッドの上で丸くなる。裸の肩が出ていて、寒さにブランケットを手繰り寄せる。
「――――――……」
なんで服着てねえんだ、と口に出したつもりが声にならずに咳き込んだ。酷く喉が荒れている上に、渇いていた。再びの頭痛を恐れて、横になったまま視線だけで周りを見回すと、見覚えのあるものは何ひとつない。途端につめたい汗が滲み出て、羽田は硬直した。
昨夜からの記憶を必死で手繰る。職場で生徒の親からの理不尽なクレームがつき、運の悪いことにこまごまと煩わしい問題も重なって、大層不愉快な心境であったことは覚えている。それでいつもなら足を伸ばさないところまで呑みに、行ったかどうかも曖昧だ。何件か梯子したことは辛うじて覚えている。あれはこれは、と引っ張り出す映像が夢なのか記憶なのか、絶望的なことにさっぱり判別がつかない。
とりあえず、他人の家で寝こけていていいわけがないことだけは理解して、羽田は鉛のような身体を持ち上げた。
「…………!」
予想通り鐘衝きの二度目は来たし、やはり自分は何も着ていなかった。挙句によほど端に寄って寝ていたのか、ついた手がベッドの縁を滑って、羽田は見事にかつ無様に床へ転落した。泣きっ面に蜂もいいところで、もう憤る気力もない。後を追って落下した自分の携帯に安心してしまったところに、思わず情報社会の病を感じる。
不格好な蛹のように床に落ちた羽田の耳に、ばたばたと足音が迫った。
「おい大丈夫か、すごい音した……けど……」
人が居て当然の如き口調でドアを開けたその男は、自分を見るなり固まった。全くお互い様で、羽田はほんの一瞬絶不調な己のコンディションさえ忘れた。
「…………ほった、せんしゅ」
何とか絞り出した声は、ぞっとするぐらい嗄れていた。見間違えようもないその名前を背に負う彼が、傍らに屈みこんで苦笑する。
「…………三回目、かな」
何がですか。
尋ねる前から、土下座をする覚悟だけは決まっていた。

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